拙者ムニエル FUTURE OR NO FUTURE

新宿THEATER/TOPS拙者ムニエルの「FUTURE OR NO FUTURE」を観る。
 澤田育子、市川訓陸不参加の理由がさぱりわかりません。客演の町田カナ、原金太郎のそのまま入れ替えてもできたような、キャラはまったく違ってくるだろうけど。
 前々作「バカが見る夢すごい夢」前作「不思議インザハウス」と同じくまたしてもモラトリアム30代の主人公。村上大樹も30超えて考えるとこあるんだろうけど、こんなのばっかしやってるとまともな大人ファンははなれちゃうし、未来があると思ってる若い新規ファンもつかめないんじゃないかと心配しちゃうよ。俺はこの方向好きですけど。やりようによっては高学歴ニート・フリーターのカリスマになれる可能性もあると思うし。
 澤田育子が毛皮族は休まないのに、今回拙者を休む理由もここかもね。どっちも貧乏モラトリアムなわけだけど、毛皮は「武士は食わねど高楊枝」な感じだし、拙者は「がんばれません」な感じだしなあ。村上さんブログタイプとかミラクルタイプとか(タイプばっかだな)テレビの仕事で小金持ってるような気はするけど。そういえば、ブログタイプ村上大樹がメガジュンさんと呼ばれていた理由はなんでしょう?メガ要素はわかるんですけどジュン要素がなんなのかさっぱりわかりませんがな。
 この芝居を大雑把に言うと挫折を味わう人物のFUTURE部だけを取り出したクローンとNO FUTURE部分だけを取り出したクローンの物語なんですが、NO FUTURE側の行動が深夜の漫画喫茶は負組の巣だから寝泊りする、社会への復讐方法がR25の買占めならぬもらい占め、破滅のために飛び降り自殺しようとするけど怖くてできないなんて日本のNO FUTURE青年がなんだかんだいってせっぱつまってないことを思い知らされます。FUTURE側も理想は高いけど、やる気がおきないから結局漫画喫茶で無駄に時間をつぶしたりしてたり、FUTUREに理想を押し付けられた本人が薄給であまりにばかばかしい仕事にやっと就職したり、夢で飯は食えないことも思い知らされます。(それが芸能や文学で成功したいということでなくて、少なくとも子供のころたいしたことないと思ってたそれなりの大人になりたいということであってもね)
 なんだかんだあって、貧乏であり続け社会的ステータスが低いままでいること受け入れて小劇団座長を続けることで自信を取り戻した主人公(村上)が、初恋の人と家庭を持つことが人生として最大の勝組という理由で主人公に求愛していたミス日本(町田カナ)に自分がFUTURE側のクローンであることを告げられ「ほんとの私自身を愛してくれる?」で本体(伊藤修子)と横浜にドライブに行くシーンで終わるわけですが、暗転後村上が目をつぶって運転し始めていて助手席には伊藤でなくて町田「目を閉じれば君に会える」でほんとのラスト。
 う〜ん、自分に未来がないように思えても世間的価値基準では量れない自分らしい生き方と妄想があれば生きていけるというメッセージだと考える俺は病んでますか?